札幌の猿田彦、早山清太郎

早山清太郎から未来へ。

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「札幌でもこの人より早く来た人がない」。  早山清太郎はかつての北海道小学郷土読本に「札幌開拓の祖」として記されている。  江戸末期、福島県から北海道に入植。独自の気象予報と土地勘を用いて、米作りの成功、札幌を制定する測量など、数々の偉業を成す。  特に、道路の開削をはじめとしたインフラ整備には力を尽くした。私財を投じることもあったという。  札幌神社(現北海道神宮)の敷地選定を行った縁で、猿田彦役として神輿の先導を長年にわたり努めた。まさに、札幌の誕生を導いた神そのものである。  「即ち我が北海の主人なり」と、開拓使の功労者である島義男判官からは称された。  しかし、彼はあくまでひとりの農民として生きることを望んだと言われている。中等の生活を維持し、古希を迎えてなおも農耕に従事した。それゆえに、彼の業績を称えるものは墓に記された「篠路院仁誉寿山徳翁万開道大居士」の法号に見るほか無い。  2015年は彼の開墾したシノロは開村150周年。今こそ先人への感謝を形にし、新しい「可能性の開拓」を目指す時である。

 

誕生と波乱の青春

1817年(文化14年) 磐城国(福島県)に生まれる。

1844年(弘化元年)  四国、九州、中国地方を巡礼。京都に留まる。

1847年(弘化4年)  郷里で米商いに失敗。新潟へ行き、某商家に勤める。 新天地、北海道へ

1851年(嘉永5年)  新潟から北海道松前藩へ行き、城の大改修事業の人夫となる。

1856年(安政2年)  松前より小樽へ。漁業に挑戦するが失敗。張碓(現小樽市張碓)の漁業家、堀内仁兵衛のもとで菓子屋などを営む。時には毛皮の卸売業を行うなど、商売の幅を広げる。堀内仁兵衛は清太郎の勤勉さを買い、番人に任命する。

 

 

才覚の発動。

1856年(安政3年) 下手稲星置(現札幌市手稲区星置)で伐採の仕事を石狩場所の請負商人・阿部屋伝次郎から受注する。 この地が農業に向いているということを地理気候と水利から読み取り、役人に報告する。才覚が世に認められる。

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現在は北広島に残る北海道の品種「石狩赤毛」

 

土に生きる決意。

1856年(安政4年)  土に生きる事を決意。開墾のため札幌郡琴似に移住する。幕吏からの勧めと、故郷福島の実りの風景が清太郎の心を動かしたと言われている。 種もみを石狩調役所から受けて、水田3畝歩(約300平方メートル)畑5反歩(役5000平方メートル)を開く。ヒグマやキツネなどに怯えながらも昼夜を問わず働く姿を函館奉行より報奨される。 米の収穫に成功

1858年(安政5年) 石狩平野で初めて米の収穫に成功する。玄米7升を幕府に献上。北海道で一旗揚げようとする多くの人々を勇気づけた。

※「寒地稲作の祖」と言われる中山久蔵。
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彼が北広島市島松で大規模な稲作に成功したのは、1873年(明治13年)。清太郎の偉業に励まされたとも言われている。

 

明治の猿田彦、札幌を導く

1869年(明治2年)  相次いで開拓使より役職を仰せつかる。「御宮地所並開墾新道新川其外掛」を命じられ、島義男判官を案内して円山(現札幌市中央区円山)を検分。札幌神社(現北海道神宮)の敷地を選定する。京都を手本とした北の都「札幌」の都市計画はここから始まる。

1871年(明治4年)  神社の完成に伴う遷宮の祭典で清太郎は猿田彦の面を付け、御神体を先導する。以後、毎年の例祭で先駆を勤める。日本神話に登場し、天津神を出雲に導いた猿田彦神ごとき活躍である。

現代の北海道神宮例祭

 

地域の未来に賭ける〜篠路院仁誉寿山徳翁万開道大居士

清太郎は、石狩から札幌への玄関口として、篠路の持つ地理的重要性を感じていた。また、彼自身に道路を25本開削すれば神仏の妙利にかなうとの信仰を持っていたという。地域の未来への可能性に、誰よりも賭けた清太郎は、家産が傾くほど公共事業に投資する。自らは倹約に励み、地域に尽くす姿は、多くの国士を感動させた。70歳近くまで公共事業の現場を先導し、80を超えてなお、現役で田畑を耕していたと伝えられている。

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篠路龍雲寺境内に並ぶ荒井金助と早山清太郎の墓。
清太郎の功績を残すものは現在、これに刻まれたる「篠路院仁誉寿山徳翁万開道大居士」の法号しかない。

 

1871年(明治4年)  開拓使より篠路村名主を申し付けられる。

1872年(明治5年)  篠路教育所の認可を取得。私財で書籍や文房具などを購入。 1873年(明治6年)  札幌〜篠路道開削(自費だったと言われている) 1874年(明治7年)  篠路〜茨戸道を自費で開削。石狩花畔サツナイ川より石狩原野まで新道開設(これも自費だったと言われている)黒田清隆次官より表彰を受ける。

1875年(明治8年)  蔵守(開拓使の蔵のあった場所は、篠路)と駅逓取扱を命じられる。石狩八幡町若生御蔵脇より当別まで、4里余新道開削 1875年(明治9年)  三条実美(さんじょうさねとみ)太政大臣の巡回に謁見を許され、褒詞を賜る。茨戸新川(現発寒川の下流部分)掘削。逆さ川(現篠路川)掘削。

1881年(明治14年)  明治天皇に巡回。豊平館で拝謁を仰せ付けられる。その際に左大臣より賞状を賜る。

1883年(明治16年)  当別村六軒より樺戸橋まで新道開削。

1885年(明治17年)  篠路村興産社前より当別太を経て対雁本村まで新道開削。対雁村より対雁村堺まで新道開削。

1907年(明治40年) 90歳の天寿をまっとうする。

(出典:シノロ140年のあゆみ 監修:郷土研究家 羽田伸三先生)



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