義に生きた石狩の豪傑、 荒井金助。(写真は孫の孝蔵さん)

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写真はお孫さんの考蔵さん。体格の良さなど金助に良く似ていたそうだ。

荒井金助は1808年(文化5年)江戸の武家に生また。間宮林蔵が樺太を探検し、間宮海峡を発見した年である。 一度は国交を樹立したロシアとの通商を拒絶した経緯から、国内に北方警備の重要性が問われた緊張の時代であった。 文化3年には幕臣の近藤重蔵が石狩川を探索。 「蝦夷地を治めるには石狩筋が第一の地」と報告した。 そんな中、京都に宮仕えしていた金助は上司と意見が合わず、失意のまま江戸に戻る。自己の損得よりも義を優先する金助の性分が招いたことだった。 物語はここから始まる…

 

金助、石狩へ。

1857年(安政4年)  3月、金助は函館奉行の堀利煕(ほり としひろ)より函館奉行支配調役並に命じられる。金助の気概を買っての抜擢だった。 命を賭けての就任に当たり、二人は血判を交わしたという。5月、金助は江戸出発。6月、函館に到着、7月、石狩に到着。

 

※ 堀 利煕(ほり としひろ)
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嘉永7年(1854年)、箱館奉行となり、樺太・蝦夷地の調査・巡回を行う。北海道の歴史に名を残す榎本武揚、郷純造、島義勇らもメンバーだった。石狩に就任した金助を応援した。安政5年(1858年)には新設された外国奉行に就任、神奈川奉行も兼任して諸外国大使との交渉に尽力した。横浜港開港に尽力し、通商条約では日本全権の1人として署名している。万延元年(1860年)、プロイセンの外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクとの条約交渉を行なっていたが、このときに利煕がプロイセンと裏交渉しているという風聞、並びにプロイセンではなくドイツ連邦との秘密交渉などが行なわれていたことなどが露見して、幕府から追及される。プロイセンとの条約締結直前に切腹した。金助にとって後ろ盾を失ったことが後の運命に影響することとなる。

 

捨身の「石狩改革

1858年(安政5年)  場所請負制度の廃止 →函館奉行所の直接経営(直捌、じかさばき) 金助は、アイヌを騙し、奴隷のように働かせていた松前藩の「場所請負制度」を廃止させた。護民官の理念に反するからである。幕府は北方警備のため、蝦夷地を松前藩から取り上げたことを契機に。石狩を箱館奉行所石狩役所の直接経営とする。 定住者を増やし国を作る。 新規参入の漁業者を奨励する一方、サケの禁漁区を設置して水産資源の保護を図った。石狩への移住希望者に、木材を貸し与えるなど、とにかく定住者の増加に努めた。「教導館」を設け、武道場を設置。人こそが国づくりの基本であり、日本を守る事だというスマートな考えであった。人々の心のよりどころである寺社の創設にも意欲を燃やし、今日まで続く石狩八幡神社や篠路神社の創立にも携わった。 冒険する改革者 大胆な改革を行うかたわら、自らも足を使って検分に努めた。石狩望来地区で油田を発見。石狩油田として1960年(昭和35年)まで採掘された。空知地方の視察では炭鉱を発見。日本の近代化を支えることとなった。

 

運命の出会い。そして、シノロへ。

1859年(安政6年)  金助、石狩調役に昇進。早山清太郎にバラトプト付近の内陸地を調査するように命じる。ロシアの脅威に対抗するために、石狩平野の開発が必要だった。 一農民の清太郎に大役を任せることは、革命的な大抜擢だったと言える。 清太郎は、期待に応えるように農耕に適した土地を見事発見する。 すぐさま、金助も清太郎の思いに応える。自費で農民十余戸を募り、同地に入殖させた。 荒井村(篠路村の前進)の誕生である。

1860年(万延元年) 清太郎、荒井村に移り住む。金助のもと、農地開発に努める。

 

最後まで義を貫き通す。

1863年(文久3年)  函館へ転勤となり、沖の口係(出入りの船から税を徴収する係)に就任。着服の疑いを掛けられ、事実上の左遷であった。 「石狩の地、他日必ず一都府となり、天皇の臨幸を仰ぐべし」の言葉を残し、石狩を後にしたという。

1864年(元治元年) 室蘭詰に就任。

1866年(慶応2年) 上司に樺太問題を直訴するため、函館奉行所庁舎に赴く。その夜、五稜郭の掘に落ちて死亡。

 

(出典:シノロ140年のあゆみ 監修:郷土研究家 羽田伸三先生)



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